皆さんこんばんはスキッパーです!今日も見に来て下さりありがとうございますm(_ _)m今日も皆さんに自分の話を読んで頂けるかと思うと嬉しい気持ちでいっぱいです。もし初めてこのブログに来て頂いた方がいらっしゃいましたら、こちらの自己紹介の記事も併せてどうぞ。では、前回の記事「休学して映画や小説を見まくった話(2000年4月〜)」の続きを書かせて頂きます。
前回の記事は自分が休学中に色んな映画や小説を見まくり、そこで受けた感動をノートに書いていったという話でしたね〜。この休学の1年間は自分の人生にしては珍しくこの話のようなポジティブめな思い出が多い印象です。まず思い出すのが父親の胃に穴が開き、入院した後の話になります。幸いな事にこの時の病状はシリアスなものではなく、1〜2週間後に退院できたのですが、退院後父親の事を心配したうちの母親方の祖母が鹿児島から神奈川の我が家までわざわざ飛行機に乗ってお見舞いに来てくれたんですよ。この時祖母は85歳くらいだったのですが、まだまだ元気いっぱいな感じでして、なんだったら当時24歳だった自分よりも全然エネルギーに溢れていまして、明るく、コミュニケーション能力も馬鹿高い人でした。そう、「祖母」といえばこれまで散々話に出てきているのは父親方の祖母の方なのですが、ご存知の通りこの祖母とニートの叔父が勝手にうちの近所に引っ越してきた事が原因で我が家は10年以上に渡って戦争状態であり続けました。自分は大学時代に1度こちらの祖母に会いにいった事があるのですが、大人しくて、ニコニコはしているものの何を考えているのか分からず、掴み所の無い印象でした。ニートの叔父も同じような印象でした。父親の話によると2人とも新興宗教にハマりまくっており、全てが神頼みの超他力本願な人だったらしい。こちらの祖母の自分の中でのイメージは、周りにいる人達のエネルギーをどんどん吸い取っていってしまう「ブラックホール」みたいな感じです。
話は母親方の祖母のほうに戻ります。それで母親方の祖母が父親の見舞いに来てくれまして、我が家は一気に賑やかな感じになりました。自分が母親方の祖母と会うのは5年ぶりくらいでしたね〜。ただ当時の自分は鬱に鬱を重ねた人生を送っていましたから、そんな賑やかな祖母が来た事に対して最初の頃は「面倒臭ぇなぁ」と感じ、祖母に会う気がしなかった記憶です。あの頃の自分はあの2人の事をめぐる長年の両親の喧嘩や父親と整体師の関係を糾弾し続ける母親の態度に疲れ切っていましたから、もう「家族」とか「血の繋がり」みたいなものに疲れ切っていたんですよ。そして、母親方の祖母が出てきたという事はうちの家族の断裂状態をなんとかしようと出てきたという事であり、「もう今更なんともならねぇよ」という思いもありました。
これは後年うちの母親から聞いた話なのですが、うちの母親方の祖母はホントに賑やかで楽しい人でして、うちの母親が実家にいた頃は毎週のように実家に親類縁者が集まり、歌って踊って楽しい宴会をしていたそうなんです。そして趣味も多彩で、俳句を嗜んだり、着物を作ったり、どれも玄人はだしの腕前だったという話でして、とにかく色んな人とお喋りするのが大好きな人で、色んな人から頼りにされ慕われていたらしい。まぁ元気過ぎて周りの人達を振り回す事もあったようですが、それ以上に周りの人達の事を大切にしていましたから、自分から見ると周りに元気を与える「太陽」のような人でした。父親方の祖母の性格と比べると「ブラックホール」と「太陽」ですから、ホント2人は正反対な性格だった印象です。そして、うちの母親方の祖父もお喋りではないものの、いつもニコニコしていて家族思いの暖かい人だったらしい。ですから父親の実家と違って、母親方の親兄弟は皆んな仲が良いのです。そう、とにかくうちの母親方の祖母は「人」や「人との繋がり」をホントに大切にする人でした。ですから、うちの父親が入院した事を聞き、85歳と高齢にも関わらず心配してわざわざ鹿児島から一人で出てきてくれたんですね。そんな祖母が我が家に来まして、自分にも声を掛けてくれたのですが、先程書きました通り自分最初の方はそれを無視していました。しかし祖母が持ち前の明るさで何度も何度も声を掛けてくれるものですから、最後は自分も折れ、祖母と顔を合わせました。その後は家族4人と祖母の5人で食卓を囲んだり、ご飯を食べに行ったり、近くの観光名所に行ったのも良い思い出です。
今日はここで失礼します。最後までお読み頂きありがとうございました!m(_ _)m
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