鬱、引きこもり、家庭問題、コミュニケーションについて

15年間引きこもって鬱と闘病した44歳ニートが、何故社会に適応できなかったのか、どのようにして鬱から回復していったのか、過去を振り返っていきます。skipper1242でツイッターもやってます。

何故両親に対して「殺しても殺し足りない」程の憎悪を抱くに至ったのか(2006年8月頃・30歳)

皆さんこんばんはスキッパーです!今日も見に来て下さりありがとうございますm(_ _)m今日も皆さんに自分の話を読んで頂けるかと思うと嬉しい気持ちでいっぱいです。もし初めてこのブログに来て頂いた方がいらっしゃいましたら、こちらの自己紹介の記事 人生年表も併せてどうぞ。では、前回の記事「親に一体いくら請求するのか(2006年8月頃・30歳)」の続きを書かせて頂きます。





前回の記事は、自分が親に月々60000円を補償させる事にした、という話でした。ちょっと今回の記事は長くなりますが、よろしくお願い致します。 その60000の内訳は、


・生活費 40000

・貯金 20000


です。自分はそれまでの半年間パチンコで月30万稼いでいましたから、それの補償としてはかなり少ない金額です。ただし当時の自分は「鬱の廃人」+「鬱の狂人」状態に陥っており、欲望が極小になっていましたから、とりあえずはそれくらい貰えれば満足な気がしたのでした。さて、補償を求める金額も決まりまして、最後に決めるのは「父親と母親、どちらに請求するのか?」、です。この選択肢はあっさり「母親」の方を選びました。そう、自分にとっては父親も母親も「殺しても殺し足りない」程憎い事に変わりはありません。ただし、話を聞いてくれそうなのは圧倒的に母親の方だったのです。我が家においては父親より母親の方が圧倒的にコミュニケーション能力が高い印象でした。対して父親の方と言えば、家の中で父親としての存在感は皆無で、いてもいなくても同様な透明人間な存在だったのです。




そう、自分は30年間一つ屋根の下で暮らしていたにも関わらず、父親がどういう人間なのか全く知りませんでした。子供頃に父親と一緒に遊んで楽しかった記憶など一つもありませんし、なんたったら子供の自分の方が気を遣って遊んであげてたくらいですからね。そして、父親といえば尿管結石の際の暴言です。この時の父親は透明人間な印象から一転、信じられないような殺人的暴言を自分に投げかけてきたのです。この時の経緯を軽くて振り返ってみようと思います。それは27歳の秋(2003年)の事。引きこもりになる1年前の話です。自分は謎のお腹の痛みに襲われまして、その痛みはどんどん酷くなっていき、父親に助けを求めに行ったんですね。それまで自分と父親は一緒にご飯を食べに行ったりで多少交流もありましたし、なによりうちの父親の職種は医療関係ですから、助けを求めに行くのは当然の流れでした。そこで自分は父親の部屋をノックし、父親の部屋に入り、「お腹がすげぇ痛いんだけど」と言ったのです。その頃にはお腹の痛みはさらに激化し、もはや立っている事も出来ません。自分は床に崩れ落ち、お腹を抱え、悶絶していたのですが、そこで父親から「こんな時だけ頼りやがって!!」という信じられない言葉を浴びせかけられたのです。それは憎々しげに吐き捨てるような口調でした。これには自分最初意味が全く分かりませんでした。「どうしたんだ??」とか「大丈夫か??」とかそういう言葉が返ってくると思ったら、「こんな時だけ頼りやがって!!」、ですからね。晴天の霹靂とはまさにこの事です。自分は10秒くらい経ってようやく言葉の意味を理解し、「ふざけんな!!!」、と激昂しました。お腹は激烈に痛いわ、助けを求めた父親から訳分からない暴言を吐かれるわ、もう滅茶苦茶です。なんかもう凄まじい肉体的苦痛と凄まじい精神的苦痛と凄まじい憎しみが自分の心を支配していました。自分は横になりながらも父親の足を蹴っていました。そして、「お前には頼らねえよ!!」と吐き捨て、這いつくばって父親の部屋から出て行こうとしました。するとそこで父親が急にまともになり、「分かった分かった、救急車を呼ぶから」となったのでした。いや〜あの事件は今思い出しても腹立ちますねぇ。その後自分は救急車で病院に運ばれたのですが、そこではさらに自分の自我をぶっ壊すくらいの肉体的・精神的苦痛の数々が待ち構えていたのでした。ちなみにこの痛みは尿管結石の痛みでした。詳しい話は過去記事に書いています。



その後自分は部屋に引きこもる事になったのですが(2004年9月・28歳)、この期間にも父親は自分の部屋に無理矢理入ってこようとして、自分のメンタルをさらに壊していきました。そして、自分は引きこもっている間に自分の全ての過去の記憶をノートに書き出していったのです。それは何故自分が28年間どこに行っても人間関係を作れず、心と身体がぶっ壊れていくだけの人生を送る事になったのか、その原因が知りたかったからに他なりません。そして1年の戦いの末に、原因は幼い頃からの家庭環境にあったのだ、という結論を導き出しました。これによりさらに父親への憎しみは激しく燃え上がりました。その後自分はようやく引きこもりを脱し、カウンセリングとパチンコに心血を注ぎ始めたのですが、今度は親が引っ越しを言い出し、またしても自分の生活は壊れていきます。東○荘事件の際には父親が自分に向かって血相変えて掴みかかってきてまして、取っ組み合いの喧嘩にもなりました。その後自分は父親への恐怖心が病的に増大し、睡眠の質が極度に劣化、「鬱の廃人」+「鬱の狂人」状態に陥る事になりました。まぁホント自分の30年間の人生において父親は害悪そのものの存在でした。自分にとって父親は「殺しても殺し足りない」程憎い人間だったのです。




対して母親の方ですが、自分は母親の方にも「殺しても殺し足りない」程の憎悪を抱いていました。何故なら、我が家は自分が小学校3年生の時から夫婦仲が激烈に悪化し、それは10年近く続いたのですが、その夫婦喧嘩はうちの母親が父親の事を責める、という構図が99%だったからです。そう、うちの父親は様々な現実的な問題に対して全く無知で無力で人間関係にアホみたいに疎い人間でしたから、そこをうちの母親から責められ続け、最後には父親がブチ切れるというのが、我が家の夫婦喧嘩のパターンとなっていました。自分は大学3年生・21歳の頃からカウンセリングに通い始めたのですが、その頃から「うちの家庭は、母親が父親の事をゴチャゴチャ責めなければ平和になるのになぁ」と考え始めたのです。




そう、振り返ってみますと、自分は小学校3年生の頃から、両親の激烈な喧嘩をずっと目の前で見させられてきていました。我が家はず〜っと戦争状態にあったのです。食卓が穏やかで楽しかった事など1度もありません。食卓の時間両親は大体喧嘩をしていましたし、そうでない時間も一触即発状態で食卓には常に激しい緊張感がビリビリに張り詰めていました。我が家では何回も家族旅行に行ってはいるのですが、自分の中に楽しい思い出は一個もありません。それは旅行中もこの2人がいつ喧嘩を始めるか分からず、そのエゲツない緊張感で旅を楽しむどころでは無かったからです。そんな状況が10年以上続き、自分はいい加減この戦争状態に辟易していました。ですから自分は21歳でカウンセリングを受け始めた頃から母親の事を敵視し始めたのです。大概の喧嘩は母親が父親の事を責める所から始まっていましたから、母親さえ我慢すれば我が家は平和になるのではないか、と。そして、自分の中の母親への「敵視」はどんどん激しくなっていき、「憎しみ」に変わり、「殺したい程の憎しみ」に変化していきました。その変化の理由はただ一点、自分の大学生活が全くもって上手く行かなかったからです。




ここで自分の学校生活を振り返ってみたいと思います。まず自分は小学校3年生時点で精神年齢の成長が止まってしまいました。原因は先程書きました通り、家庭環境が激烈に悪化したからです。家庭環境が激烈に悪化した事により、子供の自分のメンタルも急激に悪化、それに伴い持病の喘息も急激に悪化し、その苦しさで夜全く眠れなくなってしまったのです。それにより、学校生活の半分を休むような半不登校児になってしまいました。そして、学年が進むにつれて自分は周りのクラスメートとどんどんコミュニケーションが取れなくなっていきます。何故なら自分の精神年齢は小学校3年生で止まっていましたから、周りの精神年齢がどんどん上がっていけばいくほど、「精神年齢差」がどんどん開いていったからです。結果自分は高校1年生の時に孤独感を蓄積させ鬱を発症します。さらにそんな自分の性格を叩き直そうと大学入学と共に空手部に入部したのですが、ここでの練習が自分には厳し過ぎ、鬱は3倍に悪化。この時の鬱の諸症状は以下の通りになります。



「大学空手部時代の鬱の諸症状」


・大学空手部のとある練習メニューが自分には厳し過ぎて、その恐怖感で夜眠る事が出来ない。(空手部時代の話②)
・慢性的な食欲消失(大学時代の鬱の諸症状)
離人感(〜離人感と冷え性〜)
・酷い冷え性(〜離人感と冷え性〜)
・慢性的な疲労感と眠気(〜慢性的な疲労感と眠気〜)
・限定的な難聴(〜慢性的な疲労感と眠気〜)
・自殺願望(〜自殺願望と救い〜)
・常に訳もなくず〜っと悲しい。
・慢性的な口内炎



このような状態で就職活動などできるはずもなく、自分は2つ目の大学に移るのですが、ここでも全く周りの学生とコミュニケーションを取る事が出来ません。また、習い事やバイトにおいても全くコミュニケーションをとる事が出来ず、自分は孤独感と絶望感をさらに深めていく事になったのです。この頃には「自殺願望」だけが心の支えになっていました。そして、自分が孤独感と絶望感を深めていけばいく程母親への憎しみは大きくなっていったのです。何故なら、このように自分は外の世界でひたすら孤独感と絶望感を深めていく一方でしたから、せめて家の中くらい安らげる場所であって欲しかったのです。しかし、家に帰れば相変わらず母親が父親を責めまくっている状況が10年以上続いています。一向にその戦争状態は終わる気配がありません。自分は「もういい加減にしてくれ!!!」と怒り心頭でした。そして、父親を責める事を辞めようとしない母親への憎しみが「殺したい」程に膨らんで行ったのです。そして自分は28歳の時にとうとう矢尽き盾折れ引きこもる事になりました。先程も書きましたが、自分は自分の過去の記憶を全てノートに書き起こし、自分の人生がただひたすらに孤独だった原因が家庭環境にあった事を突き止めたのです。1年間の引きこもりの後、ようやく自分は外の世界に戻り、カウンセリング&パチンコ生活を始めました。ところが両親から引っ越しの話が持ち上がり、さらに東○荘事件が発生です。この事件によって、母親に対する憎しみも「殺しても殺し足りない」程まで悪化したのでした。




というように、自分は父親、母親両方に対して「殺しても殺し足りない」程の憎悪を抱くようになっていました。ただ、比較すると生活費の補償の件でコンタクトを取るなら、まだ母親とのコンタクトの方がマシに思えたのです。そう、確かに母親は常に父親の事を責め続け、最終的にそれは10年以上続きました。自分はその長さに対して凄まじい憎しみを抱いていたのですが、一方で母親がこの父親の事を責める「理由」自体はいちいちもっともだったのです。だってうちの父親が父親方の親族問題をいつになっても解決出来なかったのは、父親に責任があるのは間違いなかったですし、自分が中2の時にうちの父親が母親に全く無断でボロ家を買わされた事に関しても、どう考えても非は父親にありました。ですから、自分がムカついていたのはその長さと諦めの悪さなのです。「うちの父親が現実問題に対して全く無力で無知なのは分かりきっているんだから、もういい加減諦めて責めるのを辞めろよ!!」、と。しかし、うちの母親の追及の矛先は一向に鈍る事が無かったですから、自分は母親の事を敵視し始め、それは大学生活の荒廃と共にどんどん悪化していった、という事になります。



ですから自分は「母親が父親の事を10年以上責め続けた」事に関しては「殺しても殺し足りない」程の憎悪を感じていたのですが、一方で母親が父親を責めていた理由自体は至極まともでしたから、父親に比べれば話はできる相手のように思えたのです。




ここに来てようやく自分は生活費問題の方向性を決める事が出来ました。その方向性とは、「自殺を担保にして、母親にコンタクトを取り、パチンコで稼げなくなった補償として月々6万を要求する」、です。




今日はここで失礼します。最後までお読み頂きありがとうございました!m(_ _)m





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