鬱、引きこもり、家庭問題、コミュニケーション、発達障害について

30年間鬱と闘病した46歳ニートが、何故社会に適応できなかったのか、どのようにして鬱から回復していったのか、過去を考察しています。引きこもり歴15年、就職経験無し、発達障害歴&彼女いない歴45年。ツイッターを@skipper1242でやってましたが凍結されましたので、現在は@skipper954954でやってます。

必死の努力が何も実を結ばないどころか全てが逆効果な人生(過去編・1998年3月・22歳)

皆さんこんにちは、スキッパーです!このブログを見に来て下さりありがとうございます!初めて見に来て頂いた方にも、何度も見に来て頂いた方にも、感謝の気持ちでいっぱいです。もし初めてこのブログに来て頂いた方がいらっしゃいましたら、こちらの自己紹介の記事 人生年表も併せてどうぞ。では、前回の記事「 逆効果トレーニングがやめられない(過去編・1998年3月・22歳)」の続きを書かせて頂きます。




前回の記事は、自分が大学空手部を引退した後の、鬱の諸症状についてまとめてみました。前回の記事でまとめました「大学空手部引退後の9個の鬱の諸症状」は以下の通りになります。




「大学空手部引退後の9個の鬱の諸症状」


①空手部を引退後、『翌日の空手部の稽古が恐ろしくて眠れない』という状況は無くなった。しかし、空手部の3年間で受けた精神的ダメージは少なくとも「中指の拷問」2回分。これにより脳の一部が破壊された感がある。よって、空手部引退後も破壊された脳は元に戻らず、睡眠の不安定さはそのまま残った。(中指の拷問の詳細はこちら。記事の前半は読み飛ばして下さい。「そんな日々が3日程続いた後、、」という段落から始まります。)
②食欲の完全消失(大学時代の鬱の諸症状)
③酷いめまいと離人感(〜離人感と冷え性〜)
④酷い冷え性(〜離人感と冷え性〜)
⑤高校時代と比べて3倍酷くなった慢性的な疲労感と眠気。背中の疲労感は余りにも酷く、それは「疲労感」というより「激痛」という方が妥当。例えるなら「背中をドライバーで思い切り刺され続けている感じ」。(〜慢性的な疲労感と眠気〜)
⑥自殺願望(〜自殺願望と救い〜)
⑦何が理由かは全く分からないのだけれど、大学にいる時の自分が、身体がいつも疲れ切っていて眠くて仕方なく、いつも泣きそうなくらい悲しい事
⑧慢性的な口内炎
⑨ 空手部を引退後も自分は以下の2つの理由でトレーニングを続けてしまった。


❶大学空手部を引退した事で自分の心の中にかなりの開放感が発生。その開放感の理由は以下の3つ。


⑴死の恐怖に怯え続け、永遠に続くと思われた空手部の3年間がようやく終わった。


⑵空手部の稽古に殺されずに、生きて空手部を引退する事が出来た。


⑶この3年間、自分の脳内の中心部分には空手部の恐怖が常に居座り続けていた。その空手部の恐怖がようやく無くなった。


上記の開放感により、「空手部の恐怖」が無い状態での「自主練」をやってみたくなってしまった。



❷空手部を引退した事で自分の心の中に以下のような思いが発生した。


「自分は大学空手部の過酷過ぎる3年間を耐えたのだから、体力がかなり付いたに違いない!!」

この体力を生かすべく自主練を続けていってしまった。(しかし、実際には空手部の3年間で体力は全く付いていなかったし、それどころか鬱は3倍に悪化していた。)



そして、空手部の頃と同様、トレーニングの翌日は体調が滅茶苦茶に崩れるだけで一向に体力が付いていく実感が得られない。翌日目が覚めると、昨日の疲労感がエグく残っており、身体はとてもダル重く、冷え性も酷くて真夏でも鼻水がズルズル。もちろん食欲も皆無で背中の疲労感も滅茶苦茶。それはもはや疲労感というより激痛。背中をナイフで刺され続けているような痛み。自分の中にはさらに「脱力感」「無力感」「虚無感」が増えていき、これが更なる自殺願望へと繋がっていった。そして、当時の自分は、トレーニングをすればする程心身が衰弱していく悪魔のからくりに一切気付いていない。このトレーニング行為は「無意識の自傷行為」とも言える。




よくまとまりました。そう、自分は高校時代に鬱を発症し、それは大学入学後、空手部に入部した事で3倍に悪化してしまいました。何故そこまで悪化したのかと言いますと、空手部のとある練習メニューが自分には厳しく、自分はそれを乗り越えようと必死に自主練を繰り返したからです。自主練の内容は、ランニング、坂道ダッシュ、縄跳び、筋トレなどで、1時間程度。頻度は通常は週1回、夏休み・春休みは週3回。しかし、自分は自主練の翌日に滅茶苦茶体調を崩すばかりで一向に体力が付いた実感が得られません。逆に自主練をすればする程「孤独感」「脱力感」「無力感」「虚無感」がどんどん増えていき、とある練習メニューの恐怖もどんどん増えていったのです。これにより最終的にこの恐怖心は「殺される」程にまで増大してしまいました。これにより自分は稽古の前夜になるとその恐怖に押し潰され、全く眠る事が出来なくなってしまったのです。睡眠不足は凄まじい勢いで自分の心身を衰弱させていき、最終的に空手部の3年間で鬱は3倍に悪化してしまいました。(大学空手部を辞めれなかった理由についてはこちら)




そして、自分は大学3年生の3月に空手部を引退し、それ以降空手部の恐怖からは解放されました。それにも関わらず鬱の諸症状は全く改善されなかったのです。上記の9つの鬱の諸症状がそれです。特に⑨の「無意識の自傷行為」は厄介でしたね。空手部引退後の自分は、やはり「体力を付けたい!」という思いに囚われ、トレーニングを続けていってしまいました。相変わらず「トレーニング=体力が付く=良い事」と信じ切っていたのです。しかし、トレーニング翌日に体調を滅茶苦茶壊すばかりで、一向に体力が付いた実感が得られません。そして、例の如く「孤独感」「脱力感」「無力感」「虚無感」が凄まじい勢いで増えていき、さらに鬱を悪化させていったのです。そして、とても厄介な事に当時の自分はこの悪魔のカラクリには全く気付いていないのです。「なんで一生懸命トレーニングやってるのに、体調壊すばかりで、全然健康になれないの????」、と。「体力を付けたい」と思ってやっているトレーニングが、全くの逆効果になっている事に全く気付いていない。こんなのは「無意識的な全力の自傷行為」ですよ。そして、この「無意識的な全力の自傷行為」は、高校時代、大学空手部時代、空手部引退後と累計11年以上続いてしまったのです。つまり11年以上に渡って、自分の必死の努力は何も実を結ばず、それどころか目指す目的とは真逆の効果が延々と発生し続けていたのです。そりゃ死にたくもなりますよ。なんという馬鹿さ加減。




そういえば、小学校6年生の時に起こったA先生事件。この事件も結果的に「目指す目的とは真逆の効果」を発生させてしまった事件です。事件の概要を説明したいと思います。(事件の詳細はカテゴリー小学校時代にあります。)自分は小学校5年生の4月に塾の先生に褒められたくて、私立中学受験の塾に入りました。自分の周りには自分を見てくれる大人が両親を含め皆無でしたから、塾の先生に得意な勉強で褒めて貰いたかったのです。そして、自分は1年半必死に勉強し目標としていた好成績を達成したのです。塾のとあるシステムが自分の好成績を称賛してくれていました。それは天にも昇る心地でした。自分はこの塾に入った目的を達成したのですからね。しかし、その直後自分は嬉しくなり過ぎてしまいました。授業の冒頭に騒いでしまったのです。しかもそれは、その塾で最も厳しくて恐れらていたA先生の授業。自分はA先生に黒板消しで頭を叩かれ、「やる気の無いやつは出て行け!!!」と一喝されてしまったのです。自分はその瞬間天国から地獄に真っ逆さまです。本来の自分は先生や大人の顔色を非常に伺いながら、ビクビクビク過ごしていた少年でした。授業中に騒ぐ事などそれまで一回もありませんし、両親や大人達から怒られた事も一度もありません。そんな超優等生な自分がみんなの目の前で一喝されてしまったのです。この事は自分にとって甚大な精神的ショックとなってしまいました。しかもその塾で一番恐ろしい先生に怒られてしまったのです。その日の塾からの帰り道、自分の目に映る全ての風景は灰色に見えた記憶です。




そして、自分は家に帰宅しました。塾から母親に電話が行ったらしく母親から「今日何かあった???」と聞かれましたが、自分は何も答える気がしません。そりゃそうですよ。自分は小学校6年生にして両親に対して完全に冷め切っていました。すでに両親に対する信頼感はゼロだったのです。遡る事3年前、自分が小学校3年生の頃、父親が開業したのですが、それ以降我が家は戦争状態に陥ったのです。開業以降、母親も事務作業を手伝う事になりましたから、まず両親は圧倒的な仕事量に忙殺されました。さらに厄介な事に、この開業が原因で父親方の親類問題が発生し、これが両親の間の深刻な火種となったのです。この2つが原因で、両親(特に母親)のエネルギーと時間は仕事と夫婦喧嘩に全て注ぎ込まれ、自分には全く向かなくなりました。自分はそもそも小学校3年生以前から喘息持ちの大人しい子供でしたが、小学校3年生以降、喘息は急激に悪化し、ますます自己表現をしなくなり、日々の出来事や感情を言語化しなくなっていきました。(この場合の「言語化」とは、「喋る事」もしくは「書く事」を指しています。)




そう、自分は家庭内で学校生活の話をした記憶が全くありません。自分から積極的にはまず喋りませんでしたし、両親から聞かれる事も皆無でしたからね。そして、自分の周りには祖母や祖父などの自分の事を気にかけてくれる大人も皆無でした。そう、自分の周りには「安心して素直に」喋れる大人は皆無だったのです。もちろんこんな自分に友達が出来るはずもありません。その結果、自分は小学校3年生以降日々の出来事や感情を全く言語化しないまま、年齢を重ねる事となりました。言語化されなかった無数の記憶と感情は、「カオス状態」のまま記憶の海の底に沈んでいき、他の「カオス状態」の記憶とぐちゃぐちゃに混ざり合い「超カオス状態」に変化していきました。こうなると後からその記憶を引き出す事は実質不可能です。4〜5m重なったゴミ屋敷のゴミの地層から任意のモノを見つけるくらい困難。よって自分は日々の出来事や感情を蓄積させていく事が全く出来ず、自分自身がどんな人間なのか、全く分からなくなっていってしまったのです。その結果高校時代になると自分の健康状態の悪化にさえ気付けなくなる始末です。




このように自分は小学校3年生以降全く日々の出来事や感情を言語化しないまま、過ごす事になりました。ですから、小学校6年生の夏にA先生に怒鳴られた事件、この事件を母親に喋る気になる訳がありません。だってそれまでの自分は何気ない日々の出来事や感情すらこれまで母親に全く喋っていないのです。普段ろくすっぽ喋ってもいない相手に、こんな多大な精神的ショックを受けた事件を喋る気になる訳がない。こういうショックな事件を誰かに喋る事って自分の弱さを晒す事であり、「自己開示」だと思いますが、そんな大事な「自己開示」を、仕事と夫婦喧嘩に明け暮れている母親に喋る気になるはずがありません。もちろん父親に対しても同様です。まぁ元々父親は母親以上に自分に対して冷淡でしたから、最初から期待などしていませんでしたが。もちろん他の大人も同様です。また、自分には友達もいませんでしたから、友達に喋るという選択肢も皆無です。




こんな感じでA先生事件は誰にも喋られる事なく、記憶の海の底に沈んでいく事となりました。誰にも喋っていませんし、もちろん書いてもいません。ですから、事件の時系列や事実は全く整理されず、その時の多大な精神的ショックも全く消化されていません。もちろんこの事件の原因も全く解明されず、反省や教訓や抽出されず、全てが「カオス状態」でぐちゃぐちゃのまま。そう、この事件は「必死に1年半努力したけど、それの努力は全く報われず、それどころか最も望まない結末に終わった出来事」として、小学校6年生の自分に多大な「孤独感」「脱力感」「無力感」「虚無感」を発生させ、記憶の海の底に沈んでいく事となりました。




その結果どうなったのかという話ですが、自分はA先生に過度に怯えるようになり、塾をサボり始めました。そして、そのサボりの対象はどんどん増えていき、しまいには全ての教科をサボるようになったのです。自分は完全に勉強のモチベーションを無くしてしまいました。当然自分の成績は急降下です。一時は麻布中学合格もあり得る成績でしたが、陰も形もありません。そして、親の手前私立中学受験は一応しましたが全て不合格でした。そう、このように自分は小学校6年生の夏の時点で「目指す目的とは真逆の効果」を発生させていたのです。そして、その後自分は中学、高校と進んでいくのですが、ここで発生した失言、暴言事件の数々。これも「目指す目的とは真逆の効果」を発生させた結果だったと思います。自分が良かれと思って喋った事が全くの逆効果を引き起こしていましたからね。こうやって思い出してみますと、自分の人生ってこんなことばっかかやってますね。そして、その逆効果によって心身が壊れていっただけの人生、とも言えます。




今回の記事はここで失礼します。最後までお読み頂きありがとうございました!





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