鬱、引きこもり、家庭問題、コミュニケーション、発達障害について

30年間鬱と闘病した46歳ニートが、何故社会に適応できなかったのか、どのようにして鬱から回復していったのか、過去を考察しています。引きこもり歴15年、就職経験無し、発達障害歴&彼女いない歴45年。skipper1242でツイッターもやってます。

歓迎会で「被害妄想」を発症した3つの理由(過去編・1992年4月・16歳)

皆さんこんにちは、スキッパーです!このブログを見に来て下さりありがとうございます!初めて見に来て頂いた方にも、何度も見に来て頂いた方にも、感謝の気持ちでいっぱいです。もし初めてこのブログに来て頂いた方がいらっしゃいましたら、こちらの自己紹介の記事 人生年表も併せてどうぞ。では、前回の記事「普段の食卓の雰囲気と歓迎会の雰囲気が違い過ぎる(過去編・1992年4月・16歳)」の続きを書かせて頂きます。




前回の記事は、自分が高校入学直後の「歓迎会」で感じた「被害妄想的な嘲笑感」について考えてみました。今回の記事も改めてこれについて考えてみます。途中までは前回の記事の繰り返しのような話になります。まずは「歓迎会逃亡事件」の概要になります。自分は高校入学後に吹奏楽部に入部しまして、サックスパートに所属する事になりました。すると、サックスパートの先輩達6人が我々新入生の為に歓迎会を開いてくれたのです。しかし、自分はそこで先輩達の会話に入る事が全く出来ませんでした。すると自分の心の中には「被害妄想的な嘲笑感」がどんどん大きくなっていったのです。それは「先輩達が会話に入れない自分の事を心の中で嘲笑しているのでは?」という被害妄想です。自分はその精神的苦痛に耐えかね、歓迎会開始から40〜50分後にそこから逃げ出してきたのでした。事件の詳細は以下の記事の通りです。



〜高1で鬱を発症するきっかけとなったとある暴言③〜高1で鬱病を発症するまでの具体的エピソード13



〜高1で鬱を発症するきっかけとなったとある暴言④〜高1で鬱病を発症するまでの具体的エピソード14


〜高1で鬱を発症するきっかけとなったとある暴言⑤〜高1で鬱病を発症するまでの具体的エピソード15



さて、この時の「被害妄想的な嘲笑感」の原因として考えられるのは「背中の慢性的な疲労感」です。自分は幼い頃から喘息に苦しみ続けており、その弊害で背中に慢性的な疲労感が発生していました。その慢性的な疲労感は学年が進むにつれて酷くなっていき、高校1年生の時には痛みに変わっていたのです。そして、痛みに変わった疲労感は自分から集中力や意欲をどんどん奪っていき、さらに自分から「自信」を奪ってもいきました。そう、背中に痛みが発生すると自分はただでさえ少ない自信を失っていきました。自信がゼロになり、さらにマイナス状態に突入しますと、「周りが自分の事を馬鹿にしている」という被害妄想が発生していた印象です。



もう一つの理由として考えられるのは、当時の自分が家庭内でコミュニケーションの訓練を全く積んでいなかった、です。そう、うちの両親は自分が小学校3年生の時に新規事業を立ち上げたのですが、その新規事業が原因で親族問題が勃発。その親族問題を巡ってうちの両親は激しい夫婦喧嘩を始めたのです。そこから、うちの両親の全てのエネルギーと時間は、新規事業と夫婦喧嘩に注ぎ込まれた印象です。そもそも小学校3年生以前からうちの両親は自分に対する興味が薄かったのですが、開業以降は完全に放置状態です。自分は両親に興味を持たれた記憶がありませんし、日々の出来事を両親に喋りたいと思った記憶もありません。そして、うちの両親は食卓において延々と10年以上に渡って不毛な夫婦喧嘩を繰り返し続けました。




そんな荒廃した雰囲気の中で自分は育ったのです。自分は幼い頃より身の回りの出来事や感情を全く喋らないまま、成長していく事になりました。自分起きた身の回りの出来事や感情は全く整理整頓されないまま、記憶の海の底に沈んでいく事になったのです。これにより自分は自分自身の事を全く把握できなくなってしまいました。全く把握出来ていませんから、自分自身の事を言葉で表現する事が全く出来ません。「自分はこんな人間で、こんな事を考えています。」という表現が全く出来ないのです。自分自身を表す「的確な言葉」がまるで思い浮かばない状態です。また、自分自身の事を全く把握できていませんから、他人に対する興味も皆無です。そんな自分が学年が進むにつれて、クラスメートとコミュニケーションを取れなくなっていったのは、必然でした。高校に入ると自分は同性との1対1でのコミュニケーションも難しくなっていました。



話は歓迎会に戻ります。この歓迎会は我々新入生2人を先輩達6人が歓迎してくれる会でした。そして、男女比は、男2人に女6人。先程も書きましたが、当時の自分は同性相手に1対1で喋る事さえ難しくなっていました。そんな自分が6人の女の子の先輩を目の前にして喋るなんて、無理ゲーにも程があったと思います。喋る事自体が絶望的に無理な状況でしたね。当時の自分がその状況に絶望した可能性は高いと思います。




そして、前回の記事にも書きましたように歓迎会の雰囲気はとても和やかで和気藹々としたものでした。しかし、当時の自分にとってはその状況もとても慣れないものだったのです。何故なら、我が家の食卓が一触即発の緊張感漂う、和やかさの欠片もない食卓だったからです。そう、その雰囲気への戸惑いもかなりあった記憶です。自分はこの雰囲気にもかなりの居心地の悪さを感じていた記憶です。ですから、自分はこの歓迎会に対して、まずコミュニケーション能力的に絶望感を感じたと思いますし、さらに雰囲気的にもかなりの居心地の悪さを感じていたと思います。



まとめますとこの歓迎会は自分にとって以下の3つの理由でとても厳しいものでした。



①自分は幼い頃から背中の慢性的な疲労感に苦しんできていたが、それがこの歓迎会でも発生。それはもはや疲労感というより痛みに悪化しており、自分から集中力や意欲や自信をどんどん奪っていった。




②当時の自分は1対1の同性との会話さえ難しくなっていた。ところがこの歓迎会は男2人と女の子4人の状況。自分にとっては1対5の会話でさえ難し過ぎるのに、さらに女の子が4人もいる状況なんて無理ゲーにも程がある。その状況に自分は絶望感を感じていた。



③自分が育った家庭環境は長年に渡って両親の戦争状態が続き、荒廃し切っていた。対してこの歓迎会の雰囲気はとても和やかで穏やか。当時の自分は歓迎会の暖かい雰囲気に面食らい、かなりの居心地の悪さを感じた。





う〜ん、辛い。そりゃ「被害妄想的な嘲笑感」が発生しますね。そして、その「嘲笑感」はどんどん大きくなっていき、自分はその精神的苦痛に耐えかねて、歓迎会から逃げ出したのでした。




今回の記事はここで失礼します。最後までお読み頂きありがとうございました!





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