鬱、引きこもり、家庭問題、コミュニケーション、発達障害について

30年間鬱と闘病した46歳ニートが、何故社会に適応できなかったのか、どのようにして鬱から回復していったのか、過去を考察しています。引きこもり歴15年、就職経験無し、発達障害歴&彼女いない歴45年。ツイッターを@skipper1242でやってましたが凍結されましたので、現在は@skipper954954でやってます。

母親に対して憎しみを募らせていった経緯(過去編・2003年7月・27歳)

皆さんこんばんは、スキッパーです!このブログを見に来て下さりありがとうございます!初めて見に来て頂いた方にも、何度も見に来て頂いた方にも、感謝の気持ちでいっぱいです。もし初めてこのブログに来て頂いた方がいらっしゃいましたら、こちらの自己紹介の記事 人生年表も併せてどうぞ。では、前回の記事「父親方の家系の圧倒的な「家族の闇」(過去編・2003年7月・27歳)」の続きを書かせて頂きます。



前回の記事は、自分が2つ目の大学の復学に失敗した後、家庭内の人間関係からも脱落しつつあった、という話がでした。そう、自分は特に母親に対してムカつきまくってきました。「殺したい」程憎んでいたと言っても過言ではありません。前回の記事に書きましたように、その理由はうちの母親が父親の事を15年以上に渡って激しく糾弾し続けていたからです。前回の記事から、その部分を抜粋したいと思います。前回の記事をお読みの方はスルーして下さい。



確かにうちの父親には糾弾されても仕方がない数々の歴史がありました。父親はうちの家庭に数々の酷いトラブルを持ち込み続け、心優しい母親はその尻拭いに振り回され続けてきたからです。母親は父親に対する不信感をどんどん増大させ、父親を糾弾する姿勢は年々酷くなっていきました。これによって我が家は15年以上に渡って戦争状態に陥っていたのです。



また、数あるトラブルの中でも「父親方の親族問題」は、我が家の最も酷い禍根となっており、母親は特にこの問題で15年以上父親を激しく糾弾し続けていました。そして、母親が父親を糾弾している理由自体はとても真っ当なものでした。父親と母親の間には、常に酷い喧嘩の種が山積していたのですが、どんな喧嘩をしていても喧嘩の最後は必ずこの親族問題に帰結していました。



自分は小学校3年生の頃からこの不毛過ぎる争いを目の前で見させられてきました。この頃には父親が新規事業を始めましたから、まずうちの両親はそれに滅茶苦茶忙殺され、それが原因で家の中が荒廃し始めました。元々うちの両親は子供の自分に対して無関心でしたが、それもさらに悪化し、完全放置状態です。そこに来て、さらに先程の親族問題が勃発しましたから、家の中は戦争状態に突入していったのです。



そして、父親はいつまで経ってもこの親類問題を解決する事が全く出来ませんでした。父親方の家系には長年積み上がった圧倒的な「家族の闇」がありましたから、父親がそれを解決出来なかったのも無理はありません。しかし、父親はその「家族の闇」を母親に上手く説明する事も出来ませんでした。何故なら父親もまた過去の自分と同様に「自己認識能力」「自己表現能力」に激しく劣る人間だったからです。故に母親は親族問題を解決出来ない父親を15年以上に渡って激しく糾弾し続ける事となったのです。




なるほど〜。このようにうちの母親は15年以上に渡って、父親の事を糾弾し続けていました。そして、自分は小学校3年生から延々とその光景を見させられたのです。また、そもそもうちの両親は子供の自分に対して無関心でありました。故に自分は物心ついた頃から両親に対して何の愛情も信頼感も感じておらず、両親に対して諦め切っていましたし、冷め切ってもいたのです。ですから子供の頃は延々と続く両親の喧嘩に対して何も感じていなかった記憶です。「あぁまたやってんな」くらいのものです。



この気持ちに変化が生じたのは1つ目の大学でカウンセリングを受け始めてからだと思います。自分はそこで初めて「安心して素直に」喋る事を覚え、それに伴い自分の過去を省み始めたように思います。そこで、自分は自分の育った家庭環境に疑問を持ち始めたのです。「あれ?うちの両親ってずっと子供の事ほったらかしで喧嘩し続けていたけど、それってなんかおかしくないか??」、と。



さらにその頃から自分は家庭に対して「安心」や「居場所」を求め始めていました。何故なら自分は高校、大学と学校生活において、全く居場所を作れていませんでした。その孤独感から鬱を発症し、心身は壊れいく一方だったのです。そこで自分は家の中に「安心」や「居場所」を切実に求め始めたのでした。特にこの頃の自分は、大学で空手部に所属しており、部活の練習に激しく恐怖し、さらに鬱を悪化させていました。当時の鬱の諸症状は以下の通りになります。いつものコピペになります。



「大学空手部時代の11個の鬱の諸症状」


①大学空手部のとある練習メニューが自分には厳し過ぎて、その「殺される」程の恐怖感で夜眠る事が出来ない。(空手部時代の話②)

②食欲の完全消失(大学時代の鬱の諸症状)

③激しいめまい・離人感(〜離人感と冷え性〜)

④酷い冷え性(〜離人感と冷え性〜)

⑤高校時代と比べて3倍酷くなった慢性的な疲労感と眠気。背中の疲労感は余りにも酷く、それは「疲労感」というより「激痛」という方が妥当。例えるなら「背中をナイフで思い切り刺され続けている感じ」。(〜慢性的な疲労感と眠気〜)

⑥限定的な難聴(〜慢性的な疲労感と眠気〜)

⑦自殺願望(〜自殺願望と救い〜)

⑧何が理由かは全く分からないのだけれど、大学にいる時の自分が、身体がいつも疲れ切っていて眠くて仕方なく、いつも泣きそうなくらい悲しい

⑨慢性的な口内炎

10空手部の稽古中の喘息

11空手部のとある練習メニューの恐怖を乗り越えようと、自主練を繰り返すも、翌日の体調が滅茶苦茶に崩れるだけで一向に体力が増える実感を得られない。そのうちに自分の中には「孤独感」「脱力感」「無力感」「虚無感」がどんどん増えていき、これが自殺願望へと繋がっていった。これは「無意識の自傷行為」とも言える。
(大学空手部時代の虚し過ぎる自主練)



おまけ①:空手部の稽古中の様子

『空手部の稽古中の自分は、喘息は苦しいわ、めまいは酷いわ、背中の慢性的な疲労感は酷いわ、眠気は酷いわ、酷い冷え性で鼻水ズルズルだわ、滅茶苦茶でした。自分の意識はこれらの症状に攻撃され続け、その肉体的苦痛で頭が狂いそうでした。その苦痛量は心の許容量をオーバーしていましたから、稽古中にも「離人感」を発症していたのです』
(大学空手部時代の虚し過ぎる自主練)


おまけ②:大学空手部を辞めれなかった理由についてはこちら


おまけ③:自主練翌日の体調

『自主練の翌日の体調は、昨日の疲労感がエグく残っており、身体はとてもダル重く、冷え性も酷くて真夏でも鼻水がズルズルだったのです。もちろん食欲なんて当然ありませんし、背中の疲労感も滅茶苦茶です。背中をナイフで刺され続けているような痛みでしたからね。こんな状態で体力が付いたという実感を得られる訳がありません。』



う〜ん、酷い。もはや自分は「鬱の廃人」状態に陥っており、この状態での社会生活は到底無理な状態でした。故に自分は無意識的に「家族」に対して「安心」や「居場所」を切実に求め始めたのです。これまで自分は外の世界で全く人間関係を作れませんでしたから、今度はそれを家庭内に求め始めた、という事になります。加えて、自分は1つ目の大学内でカウンセリングを受け始め、カウンセラーの先生に対して「安心」や「暖かさ」を感じていました。それは生まれて初めて感じるポジティブな感覚でした。ですから、「安心」や「暖かさ」を家庭にも求め始めたのです。



しかし、そういう意識で自分の家族を見てみますと、うちの母親が相変わらず父親の事を激しく糾弾し続けており、相変わらず家の中では戦争状態が続いています。戦争状態は10年以上続いているにも関わらず、ここに来てさらに酷くなっている印象すらありました。そこには相変わらず「安心」や「暖かさ」の欠片もありません。そこで、自分は母親に対して憎しみを感じ始めたのです。それは言語化するとこんな感じです。


「うちの父親が現実問題に対してひたすら無力なのは、もはや分かり切っているのだから、もういい加減父親の事を責め続けるのを辞めてくれ!!!俺は家族に対して切実に『安心で暖かい居場所』を求めているのだから!!!」



今回の記事はここで失礼します。最後までお読み頂きありがとうございました!




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