鬱、引きこもり、家庭問題、コミュニケーション、発達障害について

30年間鬱と闘病した46歳ニートが、何故社会に適応できなかったのか、どのようにして鬱から回復していったのか、過去を考察しています。引きこもり歴15年、就職経験無し、発達障害歴&彼女いない歴45年。skipper1242でツイッターもやってます。

父親方の家系の圧倒的な「家族の闇」(過去編・2003年7月・27歳)

皆さんこんにちは、スキッパーです!このブログを見に来て下さりありがとうございます!初めて見に来て頂いた方にも、何度も見に来て頂いた方にも、感謝の気持ちでいっぱいです。もし初めてこのブログに来て頂いた方がいらっしゃいましたら、こちらの自己紹介の記事 人生年表も併せてどうぞ。では、前回の記事「古本屋バイトも辛くて仕方ない②(過去編・2003年7月・27歳)」の続きを書かせて頂きます。



前回の記事は、自分が古本屋バイトの支店を撤退したものの、本店の方の人間関係も辛くなっていった、という話でした。いよいよ自分の人生がどん詰まってきました。ここまでの流れを見てみますと、自分は1つ目の大学を4年で中退し、2つ目の大学で大学生活のやり直しを図るも、それも失敗してきました。さらに最後に残った本店での古本屋バイトまでも人間関係が辛くなってきていたのです。まぁでもそれも仕方ありません。当時の自分は以下の10個の鬱の諸症状を発症し、社会生活など到底無理な状態だったのです。以下いつものコピペになります。以前からお読みの方はスルーして下さい。



「大学空手部引退後の10個の鬱の諸症状」


①空手部を引退後、『翌日の空手部の稽古が恐ろしくて眠れない』という状況は無くなった。しかし、空手部の3年間で受けた精神的ダメージは少なくとも「中指の拷問」2回分。これにより脳の一部が破壊された感がある。よって、空手部引退後も破壊された脳は元に戻らず、睡眠の不安定さはそのまま残った。(中指の拷問の詳細はこちら。記事の前半は読み飛ばして下さい。「そんな日々が3日程続いた後、、」という段落から始まります。)

②食欲の完全消失(大学時代の鬱の諸症状)

③酷いめまいと離人感(〜離人感と冷え性〜)

④酷い冷え性(〜離人感と冷え性〜)

⑤高校時代と比べて3倍酷くなった慢性的な疲労感と眠気。背中の疲労感は余りにも酷く、それは「疲労感」というより「激痛」という方が妥当。例えるなら「背中をナイフで刺され続けている感じ」。(〜慢性的な疲労感と眠気〜)

⑥自殺願望の頻発(〜自殺願望と救い〜)

⑦何が理由かは全く分からないのだけれど、大学にいる時の自分は、身体がいつも疲れ切っていて眠くて仕方なく、いつも泣きそうなくらい悲しい

⑧慢性的な口内炎

⑨自分は大学空手部の3年間でさらに「自分に対する自信」をさらに3倍失っていた。そして、自分の頭の中には依然として「トレーニング=体力が付く=自信が付く」という図式が色濃く残っており、この図式が自分にも当てはまると相変わらず信じていた。そこで、空手部を引退し、人間サンドバッグの恐怖が無くなったにも関わらず、「自分に対する自信」を回復させる為に自主練をを続けてしまった。(トレーニングの内容は、ランニング、坂道ダッシュ、縄跳び、筋トレなどで、1時間程度のトレーニング。頻度は週3回。)



しかし、空手部の頃と同様にトレーニングを積み重ねても一向に体力が増える実感が得られない。トレーニング翌日に体調が滅茶苦茶に崩れるだけ。翌日目が覚めると自分の身体はとても重くてダルく、身体は冷え切っていて、鼻水はダラダラ。食欲は当然全く無く、背中の疲労感は疲労感というより激痛。故にトレーニングすればする程、自分の中にはさらに「孤独感」「脱力感」「無力感」「虚無感」が増えていき、これが更なる自殺願望へと繋がっていった。そして当時の自分はトレーニングをすればする程心身が衰弱していく悪魔のからくりに全く気付いていない。体調が少し回復すると、またトレーニングをしてしまう。このトレーニング行為は「無意識的な全力の自傷行為」とも言える。

10 大学空手部の3年間で「自分に対する自信」がさらに3倍失われた事で、「被害妄想」もさらに3倍悪化。自分は大学生活の中で何をしていても全く自信が持てず、常に他人の視線を気にし、病的(×3倍)に「ビクビク」「オドオド」している状態。もはや自分にとって「自分という存在の価値」は、髪の毛一本より軽くなっている感じで、いつ他人から軽んじられ、無根拠に攻撃されても全くおかしくないような、そんな凄まじい緊張感の中で日々を送る羽目に。こんな状態では、完全に社会生活は不可能。


おまけ:サークル活動を始めとする様々なモノに挑戦している時の自分の体調


『こんな状態(鬱の廃人状態)じゃどこ行ったって、グダグダです。どこ行っても、「背中をナイフで思い切り刺され続けている感じ」の激痛が自分を襲ってくるのですから。加えて、冷え性も酷くて鼻水ダラダラ、めまいも頻発です。自分の意識の95%はそれらの精神的・肉体的苦痛に占領されており、集中力や意欲の欠片もありません。この状態は特に上記⑨のトレーニングの翌日が酷かった記憶です。』



当時働いていた古本屋は、数あるバイトの中でもかなり楽な部類のバイトだったと思います。しかし、自分は上記の状態でバイトをしていましたから、もう心身が辛くて仕方なかったのです。また、このような状態ではバイト仲間との人間関係も辛くなりつつありました。上記の10にありますように被害妄想も悪化していましたからね。自分はこの古本屋バイトを足掛かりにして大学復学を目指していたのですが、こうなると大学復学どころでは無くなってきていました。もはやこの古本屋バイトを続けられるかも怪しくなってきたのです。



そして、この頃(2003年春〜夏・27歳)になると、自分は家族内での人間関係からも脱落しつつありました。この頃の自分は母親に対して「殺したい」程の憎しみを感じていましたし、妹に対する憎しみもそれに準じていました。そして、それまではなんとなく繋がっていた父親との関係も切れかかっていたのです。では、まず自分がどのように母親に憎しみを募らせていったのか、紐解いていきたいと思います。



幼い頃から自分は母親が父親の事を激しく糾弾し続ける姿を15年以上に渡ってずっと見てきて育っていました。それにより我が家は自分が小学校3年生の頃から15年以上に渡って戦争状態に陥っていました。27歳の自分は母親に対して「もう父親を糾弾するのを辞めてくれ!!」という気持ちがかなり強くなっていました。


確かにうちの父親には糾弾されても仕方がない数々の歴史がありました。父親はうちの家庭に数々の酷いトラブルを持ち込み続け、心優しい母親はその尻拭いに振り回され続けてきたからです。母親は父親に対する不信感をどんどん増大させ、父親を糾弾する姿勢は年々酷くなっていきました。これによって我が家は15年以上に渡って戦争状態に陥っていたのです。



また、数あるトラブルの中でも「父親方の親族問題」は、我が家の最も酷い禍根となっており、母親は特にこの問題で15年以上父親を激しく糾弾し続けていました。そして、母親が父親を糾弾している理由自体はとても真っ当なものでした。父親と母親の間には、常に酷い喧嘩の種が山積していたのですが、どんな喧嘩をしていても喧嘩の最後は必ずこの親族問題に帰結していました。



自分は小学校3年生の頃からこの不毛過ぎる争いを目の前で見させられてきました。この頃には父親が新規事業を始めましたから、まずうちの両親はそれに滅茶苦茶忙殺され、それが原因で家の中が荒廃し始めました。元々うちの両親は子供の自分に対して無関心でしたが、それもさらに悪化し、完全放置状態です。そこに来て、さらに先程の親族問題が勃発しましたから、家の中は戦争状態に突入していったのです。



そして、父親はいつまで経ってもこの親類問題を解決する事が全く出来ませんでした。父親方の家系には長年積み上がった圧倒的な「家族の闇」がありましたから、父親がそれを解決出来なかったのも無理はありません。しかし、父親はその「家族の闇」を母親に上手く説明する事も出来ませんでした。何故なら父親もまた過去の自分と同様に「自己認識能力」「自己表現能力」に激しく劣る人間だったからです。故に母親は親族問題を解決出来ない父親を15年以上に渡って激しく糾弾し続ける事となったのです。




今回の記事はここで失礼します。最後までお読み頂きありがとうございました!





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