皆さんこんにちは、スキッパーです!このブログを見に来て下さりありがとうございます!初めて見に来て頂いた方にも、何度も見に来て頂いた方にも、感謝の気持ちでいっぱいです。もし初めてこのブログに来て頂いた方がいらっしゃいましたら、こちらの自己紹介の記事と 人生年表も併せてどうぞ。では、前回の記事「母親に対して憎しみを募らせていった経緯(過去編・2003年7月・27歳)」の続きを書かせて頂きます。
前回の記事は、自分が2つ目の大学の復学に失敗し、その後古本屋バイトの人間関係からも脱落し始めた、という話でした。(2003年夏頃・27歳)そして、その頃から自分は家族内の人間関係からも脱落し始めたのです。その脱落の大きな要因は、母親への憎しみです。そして、その憎しみが芽生え始めた時期は、自分が1つ目の大学でカウンセリングを受け始めた頃になります。(1997年3月・21歳)この頃の自分は大学空手部の稽古の恐怖で夜眠れない日々を送っており、鬱を3倍に悪化させつつありました。当時の11の鬱の諸症状は以下の通りになります。いつものコピペですので、いつもお読みの方はスルーして下さい。
「大学空手部時代の11個の鬱の諸症状」
①大学空手部のとある練習メニューが自分には厳し過ぎて、その「殺される」程の恐怖感で夜眠る事が出来ない。(空手部時代の話②)
②食欲の完全消失(大学時代の鬱の諸症状)
⑤高校時代と比べて3倍酷くなった慢性的な疲労感と眠気。背中の疲労感は余りにも酷く、それは「疲労感」というより「激痛」という方が妥当。例えるなら「背中をナイフで思い切り刺され続けている感じ」。(〜慢性的な疲労感と眠気〜)
⑥限定的な難聴(〜慢性的な疲労感と眠気〜)
⑦自殺願望(〜自殺願望と救い〜)
⑧何が理由かは全く分からないのだけれど、大学にいる時の自分が、身体がいつも疲れ切っていて眠くて仕方なく、いつも泣きそうなくらい悲しい
⑨慢性的な口内炎
10空手部の稽古中の喘息
11空手部のとある練習メニューの恐怖を乗り越えようと、自主練を繰り返すも、翌日の体調が滅茶苦茶に崩れるだけで一向に体力が増える実感を得られない。そのうちに自分の中には「孤独感」「脱力感」「無力感」「虚無感」がどんどん増えていき、これが自殺願望へと繋がっていった。これは「無意識の自傷行為」とも言える。
(大学空手部時代の虚し過ぎる自主練)
おまけ①:空手部の稽古中の様子
『空手部の稽古中の自分は、喘息は苦しいわ、めまいは酷いわ、背中の慢性的な疲労感は酷いわ、眠気は酷いわ、酷い冷え性で鼻水ズルズルだわ、滅茶苦茶でした。自分の意識はこれらの症状に攻撃され続け、その肉体的苦痛で頭が狂いそうでした。その苦痛量は心の許容量をオーバーしていましたから、稽古中にも「離人感」を発症していたのです』
(大学空手部時代の虚し過ぎる自主練)
おまけ②:大学空手部を辞めれなかった理由についてはこちら
おまけ③:自主練翌日の体調
『自主練の翌日の体調は、昨日の疲労感がエグく残っており、身体はとてもダル重く、冷え性も酷くて真夏でも鼻水がズルズルだったのです。もちろん食欲なんて当然ありませんし、背中の疲労感も滅茶苦茶です。背中をナイフで刺され続けているような痛みでしたからね。こんな状態で体力が付いたという実感を得られる訳がありません。』
このように自分は「鬱の廃人」状態に陥っており、社会生活が不可能な状態に陥っていました。どこに行っても人間関係を作る事が出来ません。そこで、自分の目は自然と家族に向けられるようになりました。「家庭内になら人間関係を作れるのではないか?」、と。同時期に自分は大学内でカウンセリングを受け始め、カウンセラーの先生に対して「安心」と「暖かさ」を感じていました。そこで、家族に対しても「安心」や「暖かさ」を求め始めたのです。ここからは前回の記事から引用します。
しかし、そういう意識で自分の家族を見てみますと、うちの母親が相変わらず父親の事を激しく糾弾し続けており、相変わらず家の中では戦争状態が続いています。戦争状態は10年以上続いているにも関わらず、ここに来てさらに酷くなっている印象すらありました。そこには相変わらず「安心」や「暖かさ」の欠片もありません。そこで、自分は母親に対して憎しみを感じ始めたのです。それは言語化するとこんな感じです。
「うちの父親が現実問題に対してひたすら無力なのは、もはや分かり切っているのだから、もういい加減父親の事を責め続けるのを辞めてくれ!!!俺は家族に対して切実に『安心で暖かい居場所』を求めているのだから!!!」
こんな感じで自分は1つ目の大学でカウンセリングを受け始めた頃から、母親に対して憎しみを感じ始めたのです。そして、2つ目の大学を休学した頃から、積極的に家族に関わるようになっていきました。自分は様々な挫折を経て、もはや外の世界に自分の居場所を作れそうにない事を薄々理解していました。故にせめて家の中にくらいそれが欲しかったのです。そして、カウンセラーの先生に感じる「安心」や「暖かさ」を家庭に求めてもいました。そこで、自分はこの頃から家庭内の戦争状態を終わらせようと、両親の喧嘩に対して積極的に介入していくようになったのです。
そう、うちの母親は自分が小学校3年生の頃から父親を激しく糾弾し続けており、それは15年経っても一向に終わる気配がありませんでした。15年経ってむしろそれはさらに悪化している感さえあったのです。そして、うちの両親の喧嘩は、うちの母親が一方的に父親を激しく糾弾し続け、そして最後には父親がブチ切れるというパターンがほとんどでした。その母親の糾弾姿勢は、15年経っても全く勢いが衰えていませんでしたし、この頃さらに増している感すらあったのです。
何故ならうちの母親は、この15年間父親がもたらす酷いトラブルに振り回され続けてきました。前回お話ししましたようにそのトラブルのメインは「父親方の親族問題」です。しかし、それ以外にもうちの父親は数々の酷いトラブルを家の中にもたらし続けていたのです。例えば「家の購入トラブル」「近隣問題」「整体師トラブル」。これらによって母親が父親に対して抱く「不信」が年々増大していったのは無理もなかったと思います。そして、その「不信」度合いは15年後にはもはや「心を病んでいる」ように見えるレベルでした。そして、当然ですが「不信」が増大すればする程、母親が父親を責める姿勢は勢いを増していきました。
この状態で自分は両親の喧嘩に介入し始めたのです。15年経っても全く終わる気配はなく、むしろさらに酷くなっている戦争状態を終わらそうとしたのです。これは自分が2つ目の大学を休学し始めた頃の話です。そう、自分としてはなんとか両親の間を取り持ち、戦争状態を終わらせ、家の中に「安心」と「暖かさ」と「居場所」をもたらしたいと思ったのです。自分は双方の話を聞き、なんとか両親の間を取り持とうと努力しました。そう、この頃の自分は上記の通りの「鬱の廃人」状態です。体力も気力もズタボロ状態でしたが、それを振り絞って、両親の話を聞いていきました。
しかし、自分がどんなに両親の話を聞いても、戦争状態は一向に収まりません。それはつまり、母親が父親を糾弾する勢いが一向に収まらなかった、という事です。そう、うちの母親が父親に感じている「不信」はあまりにも膨大過ぎたのです。それは15年に渡って積もりに積もった「不信」ですからね。それは膨大な「負のエネルギー」となっており、自分がいくら矛を収めるように言っても、全くそれが通用しないのです。
また、当時の自分はまだカウンセリングを受け始めて日が浅く、まだ自分自身の事すらほとんど認識出来ていませんでした。自己表現能力もまだまだよちよち歩きです。そんな乏しいコミュニケーション能力では、母親の中の膨大な「負のエネルギー」には全く歯が立たなかった、とも言えると思います。
自分は段々と両親の仲介にたいして諦めを感じ始め、それは新たな無力感となっていきました。それと同時に自分の中で糾弾を辞めない母親に対する憎しみがどんどん増大していったのです。
今回の記事はここで失礼します。最後までお読み頂きありがとうございました!
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